大阪国際空港の存続と関西国際空港の再生を求める決議(案)についての提案趣旨説明(堀田文一議員・大要)

 日本共産党議員団を代表し、大阪国際空港の存続と関西国際空港の再生を求める決議(莱)の趣旨を説明します。
 大阪国際空港は1936年、豊中市と伊丹市にまたがる田園地帯を、工場煤煙のない適地として選定し、1939年に開設されました。最初の名前は大阪第2飛行場でした。
 開港直後に拡張が計画され、当時の戦時色を背景に軍の力を使った強制買い上げも行われました。
 戦時中には軍用飛行場に転用され、戦後は米軍の伊丹基地として使用されました。
 1958年、米軍が伊丹基地を返還し、運輸省は大阪空港と改称しました。翌年には、第1種空港に指定され、大阪国際空港と改称されています。
 1962年に国際線、64年にはジェット機が就航、万博開催直前の1970年2月には3000メートルの第2滑走路も完成。空港周辺の宅地化も相まって、夜が眠られない、学校で授業中の先生の声が聞こえない、日常の会話やテレビの音が飛行機の爆音でしょっちゅう途切れるなど、大阪国際空港は深刻な騒音公害問題を引き起こしました。
 騒音公害で平穏な生活を著しく脅かされた周辺住民3970人は、1969年以降、5次にわたって、損害賠償や夜9時以降の飛行差し止めを求める訴訟を起こしました。これに対し、運輸省は1975年に夜9時〜朝7時までのダイヤ設定を禁止したのをはじめ、周辺地域での騒音対策事業を徐々に拡大していきました。ジェット機の低騒音化も進められました。1981年、最高裁判所も原告の損害賠償請求を認めました。これらの長年の試練と取組を経て、大阪国際空港は今日、環境対策上の課題は残っているものの、都心に近くて利便性の高い空港として、周辺地域と共存しています。
 1990年、運輸省と地元自治体による存続協定で、大阪国際空港は関西国際空港開港後も国内線の基幹空港として位置づけられました。関西国際空港が開港する以前の大阪国際空港は、1993年に国内線1822万人、国際線540万人の旅客を輸送していましたが、国際線が関空に移転した今日でも、年間約1500万人が利用する大阪の空の玄関となっています。
 国土交通省が発表した2006年度の空港別収支によると、大阪国際空港は数十億円の騒音対策費を差し引いた後でも43億円の収益を上げる日本一の黒字空港になっています。
 橋下知事は、大阪国際空港の廃港を声高に叫んでいますが、大阪国際空港を廃港しても、大阪と日本各地を結ぶ国内航空に大打撃を与えるだけで、関空の内際ハブ機能強化には繋がりません。大阪国際空港の廃港は、1500万人の利便を奪い、大阪の都市機能を後退させ、大阪国際空港の収益や経済効果も捨て去るもので、府民不在の一方的な押しつけでしかありません。
 伊丹廃港論の中には、「関西国際空港の経営基盤安定のため、当面、伊丹空港を国際便等の運行も含め最大限、有効活用し、伊丹空港の収益を関空に投入する」と言う意見もありますが、国際便等の運行も含めて伊丹空港を最大限、有効活用すれば、関空の経営がいっそう悪化し、衰退することは誰が見ても明らかであり、関西国際空港の経営基盤安定とは相反するものです。
 関西国際空港は現在、経営危機が深まりつつありますが、その原因は民活方式による建設と運営、1兆1千円を超える有利子負債、需要と大きく乖離した2期事業、深刻な大阪と日本の不況などにより生じたもので、大阪国際空港を廃港しても解決できません。関西国際空港は日本を代表する国際空港の一つですから、今後、国が経営危機の原因に沿った抜本的な再生策を講じることを求めます。
 以上の理由から、大阪国際空港の存続と関西国際空港の再生を求める決議を提案しました。大阪の都市機能を低下させてはならないと考えられる皆さんのご支持を賜りますよう、心からお願いし、提案理由の説明を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。